January 20, 2024

なにもない暮し、なにもなくてはやってゆけない、私たちの暮らし。

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旅行をきっかけに、当たり前だった自分の価値観が変わったことは多々あります。大きな一つの例が、自分が生きていくのに必要なものについて。旅行から帰ってくる度に、持っていったけれど使う機会がなかったものや、なくてもやっていけそうなものを見返していくと、「次の旅行ではこれは必要ないかも」という気づきがあります。

そういうことの積み重ねで自分の生活を見直していって、得られた発見の中で大きかったのは、洗濯機は要らないんじゃないか、という気づきです。

コロナでリモートワークになり、職場に縛られなくなったため、それまでより長期で旅行に行くことができるようになりました。最初のうちは三日分くらいの着替えを持っていって、着替えが足りなくなったらコインランドリーで洗濯をしていましたが、乾燥機もかけたりすると地味に費用がかさむのと、洗濯が終わるまでの拘束時間が煩わしく思うようになりました。

そこである日、ホテルの洗面器で手洗いできないかと思い、備え付けのボディーシャンプーで洗ってみたところ、意外と手洗いでもいけることに気づきました。他に洗濯を手洗いしている人のブログを読み、洗濯洗剤を使わなくとも、アルカリ性のセスキ炭酸ソーダを使えば、酸性の皮脂汚れが中和されて落ちることを学びました。それからはゴム手袋とセスキ炭酸ソーダを持っていくようになり、洗濯はホテルの部屋で済ませています。

手洗いなんて大変なんじゃないかと思われる方も多いと思いますが、一人分の下着や靴下を洗うくらいなら15分程度で終わります。コインランドリーで洗濯が終わったら乾燥機に入れて、乾燥が終わったらまた取りに行って、という手間を考えると、手洗いの方が拘束時間はよっぽど短く、ホテルの部屋で完結するので快適です。

家族分の洗濯物を手洗いするとなると労力がかかりますが、一人暮らしだったら洗濯機は要らないなぁ、と最近は思っています。脱水だけ大変なので、脱水機はあると便利ですね。

こう考えてみると、あって当たり前だと思っているものでも、意外となくても生活できるなぁと思えるものがたくさんあることに気づきました。

なしにはできないけれど、見直したものもいくつかあります。最近の例だと洗剤です。

洗濯洗剤がセスキで代用できるということを知って、他の洗剤類も安く、環境に優しいものに変えることができるのではないかと思い、食器用洗剤とシャンプーを見直しました。

食器用洗剤は食器洗い用の固形石鹸に置き換えました。旅行の際に、食器を洗う洗剤がなくてハンドソープで洗うことがありますが、それでも汚れが落ちることに気づいて、食器用洗剤を使わなくてもいいのでは?と疑問に思ったのがきっかけです。最初に母が固形石鹸で食器を洗っていて、自分も試しに使ってみたところ、そんなに泡は立たないけれど汚れはきちんと落ちるし、何より手が荒れません。

それから、合成界面活性剤の身体や環境への影響を考えて、シャンプーも変えました。今はシャボン玉石けんのシャンプーとリンスを使っています。シャンプーやリンスとして機能する成分の視点からすると、重曹とクエン酸でシャンプーとリンスは作れるみたいですが、まだ試していません。

そして、今どうにかできないかなぁと考えているのがトイレットペーパー。

トイレットペーパーは、それこそなくては生活できないと言われるものの代表と思っていましたが、「トイレットペーパーがない時代、昔の人はどうしていたんだろう?」「トイレットペーパーを使わない国はあるのだろうか?」と疑問に思ったのをきっかけに、色々調べてみました。

そういえば、大学時代に東南アジアへ短期留学した際、下水が整備されておらずトイレットペーパーを流せない国では、紙を捨てるためのゴミ箱と、ウォッシュレット用のシャワーが備え付けられていたことを思い出しました。用を足した後、水で流して布で拭くという方法だったら、トイレットペーパーがなくても生活できるかもしれませんね。

これも他のブログで学んだことですが、登山の時に用を足したくなったらどうするのか、ということについて書かれている記事を見つけました。トイレがない場合最悪そこでする、ということになるようですが、近年登山者が増えて問題となっているのが、用を足した時に使ったトイレットペーパーが放置され、自然分解されずにゴミとして残ってしまう、ということがあるそうです。人間の排泄物は地中の微生物によっていずれは自然に分解されますが、トイレットペーパーは分解に時間がかかるので地表に残ってしまうそうです。

また、トイレットペーパーは白く見せるために製造の過程で漂白されており、薬剤や水の使用が増えるため、結果的に環境の汚染にもつながっています。消費者の無知さゆえ、私たちが綺麗に見える商品を求めるゆえ、こういった本来不要な過程が挟まれていることに気づくと、私たちの責任の重さを感じます。

なにもない暮し、
しかもなにもなくては
やってゆけない暮し
それをどうするか。
暮しの手帖の一号から
十号ぐらいをながめていて
いまさらのように気がつくのは、
なんでも作ろう
という記事が実に多い
ということである。
『なんにもなかったあの頃』

雑誌『暮しの手帖』初代編集長の花森安治さんが残した言葉ですが、これを初めて読んだ時、ハッとしました。これまでの私の暮らしは対処療法のような暮らしだったなぁと。

自分の中で当たり前なものやことを見直す機会を設けて、まずは小さくできることから変えていく。そして、少しでも良い循環に繋がっていけば良いなぁと思っています。